2月9日(日)聖日礼拝

「聖 書」

更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉をはくことをあなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。

(イザヤ書 58章7~10節)

説 教 「わたしはここにいる」

本日の御言葉は「真の礼拝」「真の断食」「真の宗教」を悟る上で、大切なものです。本日のイザヤ書58章では「偽善な断食」を戒めるイザヤの言葉が記されていますが、本日の最も大切なテーマは「光」です。「あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。」(58:6)「あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。」(58:10)イザヤの語りたいことは「回復」です。宗教的偽善から解放されて、神の下に真実に「回復」されることを願う言葉が、本日のイザヤの預言です。この預言は新約では、イエスにおいて実現しました。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:9)またイエス御自身が、マタイ書において「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」(マタイ5:16)と「地の塩、世の光」の箇所で語られています。光はイエス様であり、その光を信じ受け入れる者の「光」のことです。このように本日語られる光は、自分の中にある「闇」を昼に変え、私の傷を癒すものです。そして、その光は、周りの人々にも良い影響を与え、「神のもとに立ち帰らせる」働きを為すものです。イザヤ書は高等批判では複数の著者によるものというのが定説ですが、著者一人説も存在します。その説に立つならば、(1~39章)は背信の民に裁きを語り、悔い改めを迫るイザヤ。そして(40~66章)は預言者として晩年に民に語る言葉として、「慰め」と「回復」を語るイザヤと解せます。その解釈に立つならば、本日の御言葉は「メシア預言」となります。イザヤは人生の経験を積み、人々に「永遠の命」である、「被造世界の回復」を預言したのです。では本日語られる「光」と何なのでしょうか。これは勿論、前節で自己義認が批判されたことを鑑みるならば、ここで語られる「光」とは神との正しい関係の中で、「神が与えられる光(義)」のことだと解することが適切です。では神が与えられるための「私」とは何なのでしょうか。そのヒントは「わたしはここにいる」(58:9)です。この言葉は直訳すると、「見よ、私を」となります。「私」は神ですから、私共が苦しみの中で、信実な心で神を呼び求めるならば、神は顕現されるということです。その顕現された神は「愛」です。自己犠牲の愛を実践される神です。私共が苦しみの中にある時に、叫ぶ時に、愛の極みの神を見ると主は言われるのです。私共は神が、そのような神であることを知る時に、私共には光が現れ、主を喜びとし「真の宗教」を知る者とされるのです。