2月2日(日)聖日礼拝

「聖 書」

どのような人が、主の山に上り聖所に立つことができるのか。それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人。主はそのような人を祝福し、救いの神は恵みをお与えになる。それは主を求める人、ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。

城門よ、頭を上げよ。とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。城門よ、頭を上げよ。とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光に輝く王。

(詩編 24章1~10節)

説 教 「栄光に輝く王」

「栄光に輝く王とは誰か?」この言葉が本日のテーマです。「栄光に輝く王」とは勿論、「主」(24:10)のことです。詩編24編は「メシア預言」ですので、「主イエス」と解します。本日の御言葉を要約するならば、「神の御旨に適う人(正しい人)が神殿で神の栄光の現れ(メシア)に接する喜びを得る」と解します。これは「神の栄光(メシア)に出会う喜びの歌」です。この預言の成就が「主の奉献」(ルカ2:22)です。幼子イエスが「初子の奉献」(出エジプト13:1)規定により、清めの期間が過ぎて、神殿に捧げられました。その時に、シメオンという信仰が篤く正しい人が神殿に入ります。シメオンは幼子イエスに出会い、神を讃えて「叫び」ます。「今こそ主よ、僕を去らせたまわん。」彼は「イスラエルの慰められることを待ち望んでいた人」です。彼は遂にメシアに出会ったのです。しかし皆様は不思議に思われないでしょうか。どうして彼は「幼子」をメシアだと認識できたのでしょうか。この理由は彼が霊に導かれ、聖霊に満たされていたからです。(むなしいものに魂を奪われていない人24:4)私共も同様です。主イエスは私共のところに来て下さいました。シメオンが母マリアに告げた預言「反対を受けるしるし」を、私共は正しく「主イエス」を受け入れる者として生きたいと願います。この「主の奉献」の場面での大切な解き明かしは、シメオンがユダ族(イスラエルの救い:イスラエルの慰め)として語られ、アンナがアシェル族(異邦人(世界)の救い:救いを待ち望む皆)として語られていることです。この意味は主イエスが「世界の栄光に輝く王」であるという宣言です。これは真理です。私も又、この真理に出会って参りました。私は若い時にキリスト教に出会いました。私も多分に漏れず、キリスト教を「宗教」として見ていました。しかしキリスト教の多くの信徒との出会いを通して、信実や真理に目が開いていったのです。キリスト教は不実ではありません。神を真実に尋ね求める人に、主は必ず「門を開いて」下さいます。(24:6,7)御言葉(聖書)を聞いて受け入れる人に、必ず「実」を結んで下さいます。(マルコ4:13)そして聖書を神の言葉として聴く時に、主イエスは「栄光に輝く王」として、私共の前に来て下さるのです。「聖書は、わたし(主イエス)について証しをするものだ。」(ヨハネ5:39)私共の前にはシメオンの喜びがあります。「ヌンク・ディミティス」の聖歌に、その思いが込められています。私共も又、主に出会い救われ、「安らかに世を去る」者でありたいと願います。