「聖 書」
そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによってーこの方こそ、すべての人の主ですー平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存知でしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。(使徒言行録 10章34~43節)
説 教 「すべての人の主」
皆様、イースター(主の御復活)おめでとうございます。現在新型コロナウイルス感染拡大の防止のために、いろいろな措置がとられています。命を守る取り組みは止むを得ず「礼拝中止」を選択する方策を採らなくてはならない教会も多くなりました。礼拝は「主の招き」によって、成り立ち、神を賛美し、神の栄光を讃える信仰者の中心にキリストがおられる事実を通して「礼拝」は成立しています。どのような形の礼拝を守るにしても、主が共におられます。全てのことに感謝し、全てのことを神に栄光を帰し、全ての礼拝の民が「一つ」に為されていることに感謝を捧げましょう。主に世界の平和を祈り願いましょう。(祈祷)本日の御言葉を御覧下さい。主の復活の場面ではありません。ペトロの福音を告げる場面です。ペトロは、主の復活の証人です。それはペトロの肉の目を通して「復活」を見たから「主の証人」になったわけではありません。自らが十字架の贖いを信じ、罪が赦され、復活の主に出会い、「復活の命」を戴いたからこそ、ペトロは主の証人の命を生きているのです。このことは私共も又、同じキリスト者として同じ命を得ています。キリスト教を未だ知らない人は、「復活とは何」「復活は歴史的な事実か」と問うことがあります。キリストの復活は勿論「歴史的な事実」です。しかし、その事実は信仰の出会いなしに意味するものはありません。私共が当時を生きていて、もし十字架を見ても復活を見ても復活の命を得られるわけでもなく、信仰を得られるわけでもないのです。これは現在も同じです。科学的に神がおられることや、復活の命が証明されても信仰を得ることはできません。ですからただ「見る」ことを通してでは、復活の命は戴けないのです。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)では、復活の証人であるペトロの言葉に耳を傾けてみましょう。彼は十字架の前で三度主を否んだ者です。彼は、その罪に苦しんでいました。しかし彼は、復活の主に出会います。聖霊体験を通して信仰を得ます。復活の命を戴いて、常に主が共におられることを体験するのです。彼の新生です。本日の御言葉で、彼は証ししています。キリストが生前、平和の使者として遣わされ、数々の不思議な業をすることができたのは「神が御一緒だったから」であると。彼は今、主と共にあります。その主は「すべての人の主」です。感謝です。