「聖 書」
さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
(マルコによる福音書 1章40~45節)
説 教 「御心ならば」
先週において、「イエスの公生涯」を一日にまとめた文節は終わりました。そのまとめは、「わたしは宣教する」の言葉に集約されています。本日からの御言葉は、その主の宣教に対して人々は「宣教のしるし」をどのように受け取っていったかを語る文節に入ります。「さて」(カイ)と始まる本日の御言葉、主の後を追いかけて来た人々を背にして、他の町に宣教に向かわれた主。その結果は、どのようなものだったのでしょうか。一言で語るならば、その先々で「神の国」は実現するのですが、福音を受け入れる者は少なかったと言えます。それは本日の御言葉に示されている主の「怒り」「厳しさ」から読み取ることができます。本日の御言葉の前後に記された「4つのいやし」は、神の支配の「具体」を現しています。その「しるし」は「悪霊、病気、汚れ、罪」を征服する神の権威を現しています。人々は、この「4つ」のものに苦しんでいました。主は宣教の先々で人々の苦しみを「いやし」、神の国を実現されていかれました。にも拘わらずに、人々は「宣教のしるし」(奇跡)の背後におられる神を見ていません。その証拠に、癒された人々は神に賛美を捧げず、主の「言葉」にも聞き従っていません。本日の重い皮膚病(レプラ)の人は主に、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と言いました。病の癒しを求めたのではなく、「清め」を求めたのです。「御心ならば」の原文は「あなたが望むならば」です。その言葉に主は「深く憐れんで」と記しています。この言葉は別の写本では、「怒って」(オルギスティス)となっていて、この言葉が原文であったでしょう。主は何に怒られたのか。それは悪魔の支配に対して怒りを表しておられるのです。人(悪魔)の作り出した「汚れ」による差別や、霊的共同体からの排除は、人を「いのち」から離します。主は祭司よりも、権威ある者として、汚れを「清め」られ、レプラの人を霊的共同体に回復されたのです。主は今も、私共を福音に与らせて「聖め」を与えられ、「神の子」の特権を与えられるお方です。主が世に来られた理由は、「悪霊を追い出し、苦しみをいやされ、魂を救い、天の国を実現する為」です。では、世の人は、その福音を受け入れるのでしょうか。主は、「厳しく注意して、何も話さないように。」と言われました。神の権威(恩寵)に静かに深く沈めということです。主との交わりに、「御心」があり、救いがあるからです。