2月7日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちを癒し、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

(マルコによる福音書 1章29~39節)

説 教 「わたしは宣教する」

本日の御言葉は「イエスの公生涯」を一日にまとめた後半部分です。主は、本日の御言葉で「わたしは宣教する。その為にわたしは出て来たのである。」と言っておられます。主の公生涯は「宣教」です。では「宣教」とは何でしょうか。これは以前にもお語りしました。宣教は「説教・教育・癒し」のことである。この説明は合っていますが、ルカ的(論理的・ギリシャ的)な表現方法です。本日はマルコ書を用いていますので、マルコ的(実際的・ローマ的)な表現方法を用いて、解き明かしを致します。マルコが語る宣教とは、主の神のしるし「奇跡」を通して、「神の国が実現している」事を人々に告げ広めることです。しかし人々が「奇跡」を目にしても、主の説教に「権威」を見て取っても、その背後にある「神」を見ようとしないならば、主の宣教は「福音」とはなりません。そのことを伝えている御言葉が本日のものです。シモンのしゅうとめは熱を出して寝込んでいました。人々は主に彼女のことを話しました。主は彼女の手を取って起こし、「いやされ」(セラペイア)ました。その後、彼女は「一同をもてなし」ました。ここには彼女の驚きや、神讃美は記されていません。ただ、癒しの後、「一同をもてなした(ディアコニア)」と記しているだけです。この「もてなす」は信仰表現です。ディアコニアは「仕える」です。この言葉は、主に出会い、主を信じた者が、その後、派遣の命を生きる時に用いられる言葉なのです。また本日の御言葉は、「もてなした」を未来完了形にて記すことを通して、生涯にわたって、彼女は主に「仕え続けた」ことも意味づけて記してあると読み取れます。病の多くはストレスから来るものが多いと言われます。熱が出るの症状もまた当てはまることがあります。しゅうとめは主イエスが手を取り、起された時、「神の癒し」(安心)を得たのではないでしょうか。主の背後に「神を見た」のです。主の手当て(愛の介抱)を通して、安心を得たのです。彼女は「一同をもてなし」ました。主のみならず伴の者にも「仕えました」。信仰者の新生の命のことです。主の宣教が「神の国を実現」させています。主は、この後、奇跡を求めて来る人々に背を向けて、他の町に行かれます。これは前文に記されている「祈り」から分かるように、自分の思いよりも、「神の御旨」を生きる事を優先しているのです。宣教が福音となる場所へ、神が遣わす場所に行くようにと促されているのです。