6月6日(日)聖日礼拝

「聖 書」

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

(マルコによる福音書 14章12~26節)

説 教 「わたしの体」

先週は「三位一体の主日」の御言葉の解き明かしを致しました。私共は主より「アッバ、父よ」と、神と親しく交わる霊の恵みをいただいていますとお語りしました。そして、その霊をいただいている私共は、キリストと共に苦しむ命もいただいているのですと解き明かしを結びました。本日は、その「キリストと共に苦しむ」の本質である「聖餐」について、御言葉に聴くことに致しましょう。主は十字架に架かられる直前に、弟子達と共に、過越の食事をされました。これは今もペサハ(過越)として、ユダヤ教徒は、キッドシュ(回し飲み)をし、ハガダー(過越想起)を為して礼拝の食事とします。本日の「主の晩餐」の場面は、その伝統的行事に則ったもののようですが、そこには大きな違いがあります。「主の晩餐」は伝統的行事を意味しているのではなく、神と人が新たに結ぶ「新しい契約」が為されているという神秘の記事です。主は「主の晩餐」にて、パンを裂き、「取りなさい。これはわたしの体である」と言われました。そして続けて、杯をお渡しになり、弟子たちが杯から葡萄酒を飲んだ後に、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われました。この神秘は預言の成就です。「あなたと結んだ契約の血のゆえに」(ゼカリヤ9:11)の預言は「捕らわれ人が解き放たれる」です。そして、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、…わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ31:33)というモーセの旧い契約(出エジプト24:8)に対しての「新しい契約」の預言の成就です。主イエスの贖いの血は、罪の赦しの「神の義」です。ですから私共は聖餐にあずかる時に、主に感謝を捧げ(ユーカリスト)、神の義を想起し(アナムネーシス)、感謝の応答の命を捧げて世に遣わされていくのです。この命のことを「キリストと共に苦しむ」福者の命を生きると解するのです。この命は苦しみの道ではありません。喜びの道です。フランスの厳格な修道会にて修錬されている盲目の修道士の高齢の方が、微笑みの光に満たされながら「死ぬことは喜びです。キリストの懐に入るからです。」「主が共におられます。何も心配しなくてよいのです。全ての必要は満たされます。」と語られている映画を見ました。主は「取りなさい」と言われました。私共の決断が求められています。しかし、その愛を受け取る時、私はキリストの体となり、愛の命を生きる者となります。