6月13日(日)聖日礼拝

「聖 書」

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。

更にイエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。

(マルコによる福音書 4章26~34節)

説 教 「聞く力に応じて」

本日の御言葉の33節に「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。」とあります。主の語られた「たとえ」は「御言葉」です。何故主は、大切な神の言葉である「御言葉」をたとえで語られたのでしょうか。それは「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない」(イザヤ6:9.10)ようになるためであると前節に記されています。これはどういう意味なのでしょうか。主は万民の救い、全ての人が神に立ち帰る為の主として世に来られたのではないのでしょうか。この意味は、主は真実であり、真理でありますが、真理を聞く私共が「自分の量る秤」で、御言葉を聞くとき、真理を悟ることができずに真に神に立ち帰ることができずに「赦し」を得ることはできないの意味で記されてあるところなのです。主は全ての人々の救いの為に「福音」(御言葉)を告げられました。しかし私共の罪は真理の言葉を曇らせます。それをよく知っておられた主は、万民を救う為に、「聞く耳のある者は聞きなさい」(4:23)と言われ、一人一人の聞く力(信仰:貧しさ:敬虔)に寄り添いながら、その人の「聞く力に応じて」、福音を悟らせるために、「たとえ」で「御言葉」を語られたのです。全ては私共を愛し抜く「主の愛の業」なのです。では、その愛の業であるたとえは何を語っているのでしょうか。本日の御言葉は「天の国のたとえ」です。本日の「たとえ」を一言で語るならば、「神への信頼」です。私共は主から福音(御言葉)の「種」を頂きました。私共は農夫です。私共は種蒔きをした後に、「実りを信じて」畑の世話をするのです。そして豊かな「実」が出来た時に収穫をするのです。種が実となる仕組みの神秘は知りません。しかし種は必ず実を結ぶことを信頼して世話をしました。この意味は教会は「神の国」です。私共は御言葉を信じ、主を信頼して奉仕をします。神は必ず「神の国」(実)を実らせて下さいます。私共のすることは「神への信頼」を持ち続け、希望を持ち続け、奉仕するだけです。主は、私共が神を信頼して「聞き従い」続けるときに、人々も休むことができる大きな樹(教会=神の国)として下さいます。御言葉の種を蒔く私共は、何も心配しなくてよいのです。その意味は次節以降にも記されています。(次週)神を信頼し、御言葉を、そのままに信じるところに豊かな神の国はあります。