3月17日(日)聖日礼拝

「聖 書」

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

(ヨハネによる福音書 12章20~33節)

説 教 「わたしのいるところに」

2021年に同じ御言葉で説教をしました。その時の説教題は「わたしのいるところ」です。今回は「わたしのいるところに」です。主イエスのおられるところに、「如何にして行くか」を語りたいと願います。また前回の「御国」の具体も詳細します。本日の御言葉の冒頭に、ギリシャ人(異邦人)が主に会いに来たことが記されます。それを受けて主は、「人の子の栄光を受ける時が来た」と言われました。福音が広がり、異邦人にまで救いが広がる態を見た主は、「人の子(メシア)の受難」の時を弟子に告げました。そして、一粒の麦の「死」の話を語られたのです。自分に死んで、神に従い、多くの実を結びなさいと語られたのです。私達は「自分の命(プシケー:魂)を愛する」者です。その者は命(魂)を失うと主は言われました。この意味は自己中心を生きる「愛を失う」者は、永遠の死が待っているということです。自分の命を憎む者は、永遠の命に至るとも言われました。自分の罪を憎み、自分の悪を憎み、自己中心に死に、神と人を愛する者は、永遠の命に至ると共に「主のいるところ」にいると明言されたのです。神は、その者たちを大切に(愛)して下さいますとも言われました。主は、その後「わたしは心(プシケー)騒ぐ」と言われました。弱さを持つ「人」としての当然の感情です。主は「人」の姿を見せられ、「人」であっても、信仰の勝利の生涯を歩み切る姿を見せて下さいました。神は主の決断に答えて、「わたしは栄光を現そう」と言われました。十字架の贖いの後に起こる、「死と復活と昇天」の「栄光」のことです。この「永遠」は私共も保証されています。主は、「今こそ、この世が裁かれる時」と言われました。死と悪と罪と世が裁かれる時が、十字架の時です。聖なる者、弱い者が守られ、正義が守られる時のことです。「わたしは地上からあげられる(ヒュパオ)とき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と言われました。「青銅の蛇」「十字架」の(ヒュパオ)です。「自分のもと」とは「愛の場所」です。「交わりの場所」です。私は「聖霊聖会」で「家」のことを話しました。私には「家」が無いと言いましたが、悪の私のことを無条件に愛する祖母と姉は傍にいてくれました。今、ここにいなくとも私はすぐに「愛の居場所」に帰ることができます。「主のいるところ」は永遠の神が愛して下さる場所です。その場所は、今ここにあります。私共は信じ、従い、受け取るだけです。神に委ねた先にある命は、永遠の愛の世界です。