8月16日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

(マタイによる福音書 15章21~28節)

説 教 「どうかお助けください」

本日の御言葉では、イエス様は珍しく信仰を褒められておられる場面です。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」信仰を褒められている婦人はカナンの女であり異邦人です。主イエスは女の信仰の何を褒められたのでしょうか。本日の御言葉には三つの疑問があるのではないでしょうか。「何故主イエスは異邦人の地へ行かれたのか」「何故主は女の願いを断られたのか」「主は女の信仰の何を褒められたのか」の三つです。最後の三つ目を考えるならば「諦めない信仰の強さ」を褒めたと解することもできるかもしれませんが、信仰が神からの賜物であることを考えるならば、その解釈は違和感があります。本日の御言葉の解き明かしを三つの疑問を関係づけながら読み解くことで、先述の答えを提示したいと思います。本日の御言葉で、主は「そこをたち」と記しています。「そこ」とは?宗教的偽善者と対決をし、「絶望した地」です。そして赴かれた地もまた、異邦人の地であり、神も希望もない地である「絶望の地」なのです。主は神に導かれて異邦の地へ入られたと解釈するところです。では何故、主は異邦の地へ導かれたのか。それはメシアの救いが全世界の救いであることを主イエスに悟らせるためです。イエスもまた「霊的成長」をしていかれたのです。(ルカ2章参照)女は「主よ、ダビデの子よ」と叫びました。主は無視をされました。女は絶望を感じました。それでもなお女は主に叫び求めました。主は「メシアの務め」を語られ、女の願いを排しました。女は決定的に絶望したのです。それでもなお女は「御言葉の解釈」を語り、主に迫ったのです。主は女の信仰を褒めました。その「執拗さ」を褒めたのではありません。異邦の女が「真の神」に出会い、「真の神」に依り頼んでいるからです。ユダヤ人に拒否されたメシアが「神のない者」に見出されたのです。絶望の地が希望に変わったのです。この事実は同じ異邦人である日本人の私共にも同じく希望を与える記事です。主イエスは女を拒否していたのではなく、女の真の「信仰の姿」を前面に出そうとされていたのです。私共もまた、神に常に問われ、試練に出会い、私共の信仰が何に依拠しているのかを我が目に見せられています。それがあるから「真実なキリスト者」にされることが可能なのです。この後、異邦人はイスラエルの神を賛美し、四千人の供食で7つの籠が満たされました。7は完全数で世界の救いを表しています。