「聖 書」
神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。
(テモテへの手紙二 1章6~14節)
説 教 「信仰と愛をもって」
先週は「召天者合同礼拝」ならびに「墓前礼拝」を執り行いました。私共にも人生の最期が訪れます。私共は先に召された先達から何を見聞きし、何を残されたのでしょうか。また必ず世を去る時が訪れる私共も、世に残る人々に何を残していくのでしょうか。キリスト者が最後に「残していくもの」について、10月は何回かに亘り、「御言葉」に聴いてまいります。さて本日の御言葉は、「テモテへの手紙二」です。パウロの「殉教」が差し迫る中で、愛弟子テモテに送られた手紙です。(真正の手紙ではないが、パウロの真正の言葉も含まる「パウロの名が冠された」手紙です。)パウロは自分の最期を自覚しています。パウロは「愛する者」に最後に何を残すのでしょうか。パウロは本日の御言葉で語っています。「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。」「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」これは遺訓です。私共の高橋文蔵牧師も最期に言葉を残されました。「ありがとう‼ありがとう‼」この言葉を先代牧師である高橋初生牧師は、「初生‼後は頼んだヨ、しっかりやっておくれヨ」「永い間お世話になりました。どうか信仰をもって、神さまに従って下さいヨ。有難う。有難う」と受け取りました。この受け取りは正しいものでありましょう。本日の御言葉ではありませんが、ハバクク書に「神に従う人は信仰によって生きる」という御言葉があります。「によって」は「エク」であり、(~外へ)の意味です。つまりこの御言葉の意味は「神に従う人」は「信仰を外へ出す(証しする)」ことによって永遠に生きるという意になります。文蔵牧師も信仰を外へ出す「証し人」であったからこそ、最期の短い言葉に全ての意を伝えることができたのです。私共は「その」信仰を引き継いでいるのです。「その」信仰とは、パウロが語る「ゆだねられている良いもの」のことです。これは主イエスから与えられます。「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、」とパウロは教えています。ここで用いられる前置詞は「エン」です。「中にある」の意です。ですからこのところを直訳すると、「キリスト・イエスの中にある信仰と愛によって与えられる信仰と愛をもって、」となります。パウロは人生の最期を自分を語らずに、イエスの愛を遺したのです。信仰者はイエスを遺すのです。それは残された人に力となり「おくびょうな霊」に打ち勝つ神秘を与えることになるのです。ハレルヤ。