10月4日(日)聖日礼拝

「聖 書」

「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」

(マタイによる福音書 21章33~43節)

説 教 「ふさわしい実を結ぶ」

本日の御言葉は以前にも解き明かしを致しました。その解き明かしの大切なところは重複しますが、もう一度お語りします。基本的なところは以前のものを参照下さい。(2011.10.2、2014.10.5参照)本日は、それに加え、特に、「ふさわしい実を結ぶ」とは何かということに重点において、解き明かしを致します。本日の御言葉は、「もう一つのたとえを聞きなさい」と始まります。つまり前週の続きであり、語られている相手は「宗教家」の人たちです。主はぶどう園のたとえを語られました。これもまた前週と同じです。そのたとえの中で、主イエスの受難を示す話をされました。その話をしている場所は神殿の境内であり、緊迫の状況がひしひしと伝わる場面です。主の語られたたとえに出てくる登場人物は、主人が神であり、農夫が宗教家やイスラエル人であり、僕が預言者です。そして最後に登場し、農夫たちに殺された息子はイエス様のことです。メシアの受難を直接的に語られたたとえです。主は宗教家という権威に、「神の権威」とは本当は何かということを答えようとされています。どうして僕は迫害を受け、息子は農夫たちに殺されたのでしょうか。それは神(主人)が全て一人で用意されたぶどう園を、恵みとして貸し与えた農夫(宗教家)たちが、その収穫を神に返したくなかったからです。ぶどう園(イスラエル)で働いていたのは、自分の為であって、主人(神)の為ではなかったということです。その真実を主は衝いたのです。主はたとえを語られた後に、宗教家たちに問います。「この後、主人はどうするか。」彼らは答えて、「農夫たちを殺し、他の農夫たちに貸し与える。」と言いました。しかし主は違う答えをもって答えられました。その答えが「隅の親石」です。主は詩篇118編をもって、受難の意味を教えられたのです。神の計画は主を「受難の僕」の道を行かせるものである。しかしそれは神が死という罰を与える報復の業ではなく、彼らが捨てた(アボドキマゾー)「石」(イエス)が神の国という新しい霊の家を建てる重要な基礎(要石)となるという「神の愛の業」を示す計画のことである。ここに記された「ふさわしい実を結ぶ」とは、その神の愛を受け入れる者たちのことです。自分には何もないにも関わらず、神が全てを与えて下さることに感謝し、畑の実りを全て神にお返し、全ての充足が与えられている幼子のような謙遜な人々が「ふさわしい実」なのです。