10月11日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』

(マタイによる福音書 22章1~14節)

説 教 「食事の用意が整う」

主が祭司長たちからの「権威問答」に対して答えられた「たとえ」は本日の御言葉が三つ目であり、本日のものは、そのまとめのものでもあります。主は本日の「たとえ」を「天の国は」と始められました。つまり今まで主が語られた「たとえ」は「福音のたとえ」であったということを意味しています。主は宗教家たちに敵対して、「たとえ」を語ったのではありません。神の御旨である神の計画(権威)を、神の真実である「福音」を、誠実にお答えになったのです。では、その最後の「たとえ」には何が語られているのでしょうか。それは「婚宴」です。この意味は、イザヤ書24~27章に記された「イザヤの黙示」のことです。そこには、「神が終末に完成される救いの姿」が記されています。神の救いの完成の日には「見事なぶどう畑」を見て、救われた人々が「喜び歌う」と書き記されています。主は御自分の苦難を通して、「救いの完成」が訪れることを最後の「たとえ」で語っておられるのです。では、本日のたとえの中で厳しく聞こえる内容は如何に受け止めればよいのでしょうか。例えば、「この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」です。これはマタイ書が西暦70年に起こったエルサレム滅亡を念頭に置いたものです。初めに出てきた家来は預言者であり、次に遣わされた別の家来は初代教会の宣教者のことでしょう。彼らは神の計画である福音(婚宴)を告げましたが、「招かれていた人々」は無視しました。その理由は、「わたしの」畑、「わたしの」商売の方が、福音(婚宴)より大切だったからです。彼らは人生を見誤りました。王は招いておいた人々に、「食事の用意が整いました」と告げたのです。これは、イスラエル人にとって、「主は羊飼い」(詩篇23編)「あなたはわたしに食卓を整えてくださる」の御言葉を思い起こすものであり、その意味が霊的な充足と共に、「神の養いと守り」を意味していることは明白です。にも関らずに、選民である彼らは無視するであろうと主は語られました。それが故に、福音は垣根なく全ての民に告げられ、多くの人々が婚宴の場(神の国:教会)に連れて来られます。しかしマタイは、ここでも厳しく語ります。「招かれる者は多いが、選ばれる人は少ない。」これはキリスト者に向けられた言葉です。「食事の用意が整う」は喜びです。礼服は天国の住人である「喜びの心」を表しています。私共は主の食卓に感謝し、選ばれた人と呼ばれるのです。