11月24日(日)聖日礼拝

「聖 書」

光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

(コロサイの信徒への手紙 1章12~20節)

説 教 「御子は見えない神の姿」

本日は「終末主日」です。カトリックでは「王であるキリスト」主日が守られています。何故、「王であるキリスト」なのかと言いますと、世界の終末は、「キリストがすべてにおいてすべてになる、終末における救いの完成」を意味しているからです。この信仰をパウロ先生は、本日の御言葉にて明確に語っておられます。パウロ先生は如何にして、この信仰を得たのでしょうか。また何故、コロサイの人々に本日の御言葉を語ったのでしょうか。その理由は、コロサイの教会の中に、「異端」や「偶像」が入り込んでいたからです。彼等は創造と救済のわざにおいて「卓越した神の御子キリストを確信する」必要に迫られていました。またパウロ先生が、本日の御言葉の信仰を得たのは「聖霊の働き」です。教会は「キリストが頭」です。教会は「正しい教えに満たされる」ことによって守られています。それは教会(神に召し集められた者の群れ)の一人一人が「神の満ち満ちた本質であるキリスト」の臨在に満たされる信仰体験を得ることを通して守られているということとも同義です。このキリスト信仰は真理ですが、知識を得るだけでは、パウロ先生の伝える魂を救いうる「福音」には至りません。これは「弥勒」への他力本願の知識だけでは救いを得ることができないことと同じです。私達は「罪人」です。信仰の世界でさえ、知識を得ることで「高慢」になり、救いから遠ざかることもあるのです。キリスト者は正しく福音に出会わなくてはなりません。「偶像」を避けなくてはならないのです。「偶像」とは何でしょうか。偶像とは「ものが言えない」ものです。それは「相手の言いなりになるもの」ということです。それは自らの思い通りにする「願望の写し」のことです。これは偶像であり、異端なのです。私共は「正しい教えに満たされ」なければなりません。真の救いを、手にしなければならないのです。では「真の救い」とは何でしょうか。それは「真の神」の元に立ち帰ることです。キリストの十字架が私共を「問います」。十字架が真理であるからです。真理は私達の考えを押し付けて理解できるものではなく、神から「問われ」、私共が「応答」する時に悟ることができるものです。つまり、救いとは、「神に向き直る」ことです。キリスト教は、それを「悔い改め」(メタノイア)と言ったのです。私共は十字架を見上げ、神から問われ、悔い改めを為すときに、「キリスト(御子)は見えない神の姿」であることを悟るのです。共に「終末」を「喜びの日」として待ち望む民の一群とされたいと願います。