11月7日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

(マルコによる福音書 12章38~44節)

「生涯のすべてを投げ込む」

永遠の命に入る幸いと、その神秘について聴く御言葉が続いています。神を愛するとは、「あなた(人)が幸いになる」ことであると先週の説教で語りました。本日は、その具体的意味について御言葉が教えて下さっています。本日の御言葉の基本となる解き明かしは、以前の説教を参照下さい。(2012.11.29、2018.11.11)本日は聖書が語る「幸い」とは何かということを中心に御言葉の解き明かしを致します。さて本日は「貧しいやもめ」が登場致します。男やもめという言葉もあるように、「やもめ」は「配偶者を失って独身でいる者」という意味で、男女は問いません。しかし、聖書が語る「やもめ」は「寡婦」のことです。皆さんは、本日登場する「やもめ」の姿を如何なる人と想像するでしょうか。若くして夫を亡くした若い婦人、子供連れの婦人、老婦人等、いろいろと考えられるでしょう。ではここで登場する「やもめ」は誰か。私は「(敬虔な信仰者である)貧しい老やもめ」であると思います。このことは本日の御言葉が律法学者とやもめとの対比記事となっていることからの想像です。当時いろいろな「やもめ」がいたことはテモテへの手紙一5章を読めばよく分かります。初代教会では寡婦は支援の対象でした。これは本日の御言葉の箇所を受け止めた信徒の愛の働きであると共に、申命記10:18等の律法の成就の為です。しかし、初代教会において全ての寡婦が支援の対象となったわけではありません。愛と節度と教育を伴った支援でした。私共は、一人一人に愛をもって寄り添うのです。ですから、この「やもめ」は特別な人ではなく、私共の「写し」として見るべきです。その「視点」で彼女を視る時、律法学者の「やもめの家を食い物にし」はまことに腹立たしい社会的背景です。学者は法律の専門家として財産の調停をするという口実に、やもめの財産や家を自分のものにしていました。現在でも横行する合法の名のもとの「弱者いじめ」です。そんな状況に置かれていた「やもめ」に、幸いはあるのでしょうか。その答えは「ある」です。本日の「やもめの姿」です。本日のやもめの姿を皆さんは可哀そうと見るでしょうか。彼女はビオス「生涯」のすべてを「神の中に入れた」のです。彼女が神に絶対の信頼を寄せていたからです。(出エジプト22:22)「彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。」神に絶対の信頼を置ける者は、誰よりも幸いな人なのです。