8月2日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群集には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群集に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

(マタイによる福音書 14章13~21節)

説 教 「あなたがたが彼らに」

「五千人の供食」は「給食」や「供食」と言われます。同じ意味で漢字が用いられていると思いますが、それぞれの漢字が意味していることは、主が与えて下さった「給食」、それぞれが分かち合った「供食」と解することもできます。以前から語ってきたことですが、「五千人の供食」は聖餐式と愛餐会の原形です。ですから本日の御言葉には先述の二つの意味することが示されています。本日は、その二つの意味することを深く味わいたいと願っています。「五千人の供食」は四福音書の全てに記されてある記事です。ですから弟子たちにとって、とても大切な出来事であったということが解せます。しかし、この出来事に出会った時の弟子たちは、その意味を理解していたかどうかは疑問です。その証拠にイエス様は弟子たちに、「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言われています。ヨハネ書では、フィリポを試みるために言われたと書かれています。弟子たちは「五千人の供食」の奇跡を、主の復活、聖霊降臨を通して、その意味を理解できるようになったのです。では何故、主は、この時に弟子たちに「あなたがたが彼らに」と言われたのでしょうか。ヨハネ書が語る「試みる」も外れてはいませんが、それ以上に「御国の秘密」を解き明かすためであったと解す方が自然ではないでしょうか。ここ何週に亘り、「御国の秘密」や「種」や「たとえ(なぞ)」について御言葉に聴いてまいりました。本日の御言葉は、その「まとめ」と言ってよいものです。主は奇跡を「人里離れた所」(エレーモス)で為されました。エレーモスは「荒野」という意味です。出エジプトの「荒野」でイスラエル人はマナを食べました。マナは日々の「糧」ですが、「御言葉」でもあります。マナは「主への信頼」も意味しているのです。主はパン五つと魚二匹で群衆を満たしましたが、その意味は「モーセ五書」と「預言書」「諸書」のことであり、主が満たしたものは、「霊的な満たし」であったことが分かります。その証拠に、主は、群衆に「座る」(アナクリノー)ことを命じておられます。アナクリノーは礼拝で「分かち合う」ために座ることを意味しています。彼らが分かち合ったのは、「キリストの体」です。残ったパンの屑が、クラスマ(かけら)と書かれていることからも、その意味は確かです。主は「満たし」は何もない所で、神を信頼する信仰を通して与えられることを弟子に教えられたのです。