1月10日(日)聖日礼拝

「聖 書」

彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水で洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を授けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、“霊„が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

(マルコによる福音書 1章7~11節)

説 教 「わたしの愛する子」

本日の御言葉は「主の洗礼」です。本日は、本日の御言葉を通して、「主の洗礼」と私共との関りについて御言葉に聴きます。「主の洗礼」は福音書のすべてに記されている記事です。しかし、その記述に関しては、少しずつ違いがあります。特に大切な場面である「霊の降る場面」や「神の声」は誰が見て、聞いたのかというところは、それぞれの福音書で違いが見られます。本書以外はイエス以外も「見ていた」と解せます。しかしマルコ書は、イエスが「見た」となっているのです。マルコ書が他の福音書の底本となっている以上、本日の御言葉が「主の洗礼」の基です。つまりイエスが洗礼を受けられて、聖霊を見、神の声を聴かれたのは主御自身であったということです。この事実は、この後に「公生涯」に入られたことを見る時、正しい記述であろうと思われます。しかし罪のない神の子である主が、何故、洗礼を受けられたのでしょうか。それは「正しいこと」を行うためです。この「正しさ」(マタイ3章)は「人の義」であって、人の義は神の計画に生きる正しさのことです。つまり主はイザヤ書61章「貧しい者への福音」42章「主の僕の召命」の預言の「神の計画」を為すための「洗礼」を受けられたのです。それは「主の僕」の道を往くということです。主の僕は「自分に死に、神の御心に生きる」ということです。これは「ナジル人の誓願」に繋がる生き方です。しかし真の「主の僕」を生きられたのは、主のみです。この預言の成就は「十字架」であるからです。(イザヤ書53章)では私共には「主の洗礼」との関りは無いのでしょうか。それはそうではありません。本日の御言葉は8節の洗礼と9節以下の洗礼は「別物」であり、対比として記述されています。私共の受けた洗礼は「水の洗礼」です。しかし本当は違うのです。「洗礼」はサクラメントです。この意味は大切なことです。ヨハネが語っています。「その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」主は「主の僕」の道を往かれました。それは「民の罪の為に代って死ぬ僕」のことです。主が、その道を往かれた故に、私共の洗礼はイエスが自らの体で聖化されたものです。ですから「洗礼」は礼典であり、ただ一度限りのものであり、「聖霊の洗礼」なのです。私共は「洗礼」を受けました。それは主と同じ「神の子」とされたということです。父なる神より「わたしの愛する子」と言われています。この祝福を共に参りましょう。