1月23日(日)聖日礼拝

「聖 書」
 イエスは“霊„の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

(ルカによる福音書 4章14~21節)

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」

先週の「カナでの婚礼」の御言葉は、「終末の宴」を象徴的に表していると申し上げました。そしてヨハネは、この「最初のしるし」を主の公生涯を一週間として象徴的に表した「締め括り」として書いたとも語りました。この意味は「エデンの園の回復」です。ヨハネは福音書の冒頭を創世記に合わせて記しました。つまり「カナでの婚礼」の「しるし」も又、創世記の「第七の日」を意味して記したと思われます。「第七の日」は「安息日」です。「神が聖別し、祝福された日」です。私共、人は罪のゆえに「安息」を失いました。人は本来、「神の祝福」の中を生きる存在として、神により造られたのです。人が「神の祝福」を生きることが、「神の栄光が現れる」ことであるということも先週に申し上げたことです。私共の「罪」とは何でしょうか。神なしで生きようとする自己中心性です。強欲です。悪魔の誘惑(神から離そうとする)に負ける霊的な弱さです。この罪は個人だけでなく、私共の社会にも弊害を及ぼしています。人が強欲の奴隷になる時、貧しい者は、更に貧しくなる社会が作り出されていきます。その人間の罪の結果を知っておられた神は、イスラエルの人々に聖書を与え、「ヨベルの年」(アフェシスの年)の決まりを与えられました。50年に一度の「ヨベルの年」には、奴隷にされている者が解放され、奪われた土地が返され、元の「祝福の姿」に戻されます。(詳しくは以前の説教を参照下さい。2010.1.24、2013.1.27)「アフェシス」とは「ゆるし、解放、自由」を意味しています。主は「安息日」に聖書を朗読されました。「アフェシスの年」を意味する「終末預言(祝福の回復)」のイザヤ書でした。主は席に着き、説教をされました。主は自分を宣言されました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」主は「安息」を告げられたのです。主は御旨に生き、私共の罪を担い、極みの愛を生きる覚悟を持たれた姿で私共の前に立たれました。主は御言葉御自身でした。主は御言葉の通り、生きられました。主は福音を実現し続けられました。公生涯の生活の中で、人々に「福音」を見せ続けられたのです。この「福音」は今もあり続けています。あなたも「今日」福音を耳に(オース)しました。耳(オース)は「受け止める」を意味します。主の言葉は私共が「信じ、受け止める」時に「アフェシス」となります。祝福を戴く私共は主に感謝を捧げましょう。