1月30日(日)聖日礼拝

「聖 書」

主の言葉がわたしに臨んだ。

「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」

わたしは言った。

「ああ、わが主なる神よ。わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」

しかし、主はわたしに言われた。

「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と主は言われた。

(エレミヤ書 1章4~8節)

「わたしが命じること」

先週は主イエスが会堂にて「立たれた」解き明かしを致しました。それは主の覚悟です。それはどのような覚悟なのか。本日の御言葉「エレミヤの生涯」を通して、更に「主の生涯」と「私共の生涯」との関りを聴きつつ、その意味について解き明かしを致します。預言者エレミヤは捕囚前に活躍した人です。時代はヨシヤ王の「申命記改革」を経て、バビロニア捕囚に遭遇し、エルサレム陥落と神殿崩壊を実際に目にした頃です。エレミヤはアナトト(寒村)の祭司の家系に生まれましたが、若者の時、預言者として、主に召し出されました。「主の言葉がわたしに臨んだ」「臨んだ」(ハーヤー)は「(わたしに)あった」という意味です。この意味は心の中にあり続けた「神の声」を自覚したことを意味しています。何故、神は若者の時に彼を召したのでしょうか。それは神の言葉を取り次ぐ「預言者」は知恵や知識に頼る者であってはならないからです。エレミヤはその後、預言者の道を40年以上歩む事になります。その道は「茨の道」でした。彼は「繊細な人」でした。背信の民や偽預言者、世に頼る為政者に「預言」(真実を衝く言葉)を語るには「ふさわしくない者」でした。神は常に「ふさわしくない者」を召し出される方なのです。彼は「預言の真実」を語り続けました。誰も彼の話に耳を傾けず、そればかりか「迫害」の憂き目に遭いました。その人生の最期はエジプトにて同胞から石打ちをされ、「殉教」したことが伝説として残されています。彼の預言者人生は失敗だったのでしょうか。彼の人生は主イエスの人生に重なります。(マタイ16:14)主イエスも又、神の声に生き、迫害を受け、十字架の死を遂げられました。誰も主イエスの生涯を失敗したと言いません。それは勿論、復活の事実があったからですが、それだけではありません。そこに「信実の生涯」を見るからです。預言者エレミヤは「涙の預言者」と言われます。その意味は苦労の連続があったからではありません。(エレミヤ20:9)エレミヤは語った通りのことの「滅び」が民に及んだことを見て、「泣いた」のです。エレミヤは繊細な「愛の人」なのです。彼は、その思いを「哀歌」に書きました。彼は背信の民を愛しました。彼は罪に対する滅びを語るだけではなく、「新しい契約」(31:31)の希望も語りました。「わたしが命じることをすべて語れ」は愛を行けと言うことです。これは私共が進んでいる道と同じです。神が愛される道です。