10月10日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞ついて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも 、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちがますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言い出した。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」

(マルコによる福音書 10章17~30節)

「神は何でもできる」

金持ちの男が「永遠の命」を受け継ぐには何をすればよいかを主イエスに問います。この問いは、あなたは教会に何を求めて来ていますかの問いと同じものです。私共は神に招かれて「霊」「神の愛」「永遠の命」を求めて教会に来る者とされています。私共は、主イエスを後にする金持ちの男をどのような心で受け止めているでしょうか。私と同じ姿と見ているのか。ペトロのように自分は彼と違うという目で見ているのか。私共はしっかりと御言葉と向き合いましょう。金持ちの男は何故、主の言葉に従うことができなかったのでしょうか。それは男が富(偶像)にすがっているからです。「何でもできる」神にのみ頼っていないからです。本日の御言葉は、主の受難予告の二回目と三回目に挟まれた「6つの人間世界」についての最後の「富と人」です。私共は言わずもがな「世の支配」の中に生きています。神にのみ依り頼まず、偶像(世)にすがります。私共も又、天の国に入ることは難しいのでしょうか。主イエスは金持ちの男に対して、「善い者は、神おひとりだ」と告げ、神に目を向けるように促されました。そして律法の「隣人愛」を思い起こさせ、神の本質である「愛」に心を向けさせたのです。男は主の言葉に従うことはできませんでした。それに比してペトロは自分は捨てて従いましたと「言い出しました」。世的な優越感です。主は「捨てる」意味について、御自分の「十字架の死」を思いつつ教えました。主の言われる「捨てる」は以前にお語りした「神の極みの愛」のことです。神は全知全能ですから何でもできます。しかしこの意味は被造物に対して何でも傍若無人に権能を振るうという意味ではありません。神(聖)と人は隔絶しているにも関わらず、神が被造物を愛する父の愛で、その隔絶(溝)を越えられたという「全能」が語られています。それは神は永遠であるにも関わらず、人となり死を経験するという、神を「捨てる」全能なのです。(2015.10.11参照)このような「神の愛」に私共は報いることはできるのでしょうか。私共は自分を捨てて、主に従うことはできるのでしょうか。私共にはできません。それを知っておられた主は「神は何でもできる」と言って下さったのです。神は世に負け通しの「私」を「造り変えること」ができる「何でもできる方」です。私共はただ信じます。その信仰により、「知恵である主」の中に量り難い富があることを知る者へと変わるのです。