10月3日(日)聖日礼拝

「聖 書」

多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。

(ヘブライ人への手紙 2章9~11節)

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。 (マルコによる福音書 10章2~16節)

「一つの源から」

本日は聖餐式を執り行います。私共はキリストの血とキリストの体である「一つのパン」を戴く時、私共は「一つの体」となります。本日は、その意味について御言葉に聴くことに致します。一コリント書10:16~に「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」と信仰の告白がされています。この意味については何度も聞いてきましたが、本日は、拝読された二書を通して、その信仰の深さと豊かさを味わいましょう。本日のヘブライ書において、「(キリストは)天使たちよりも、わずかな間、低い者とされた」と記しています。著者は詩篇8編をキリスト預言として解釈しています。イエスを「人間」(ただの人)「人の子」(メシア)の両義性として見ています。イエスは神である。それなのに人間になられたという告白です。何故、神であるイエスは人になられたのか。それは人の苦しみを知り、担い、「人と一つ」になる為です。そして神の救いの計画である「贖いの十字架(神の小羊)」に架かり、人の罪を担い、神の愛を完成させる為です。私共に救いは一つしかありません。救いは「一つの源」から出てくるからです。「一つの源」とは「唯一の神」のことです。「神の愛」そのもののことです。私共は、神の愛である福音を受け入れる時、「聖なる者」とされます。それは救われた者は「一つの源」(神の愛)から「出てくる」からです。私共キリスト者は「一つの源」から出てくるゆえに「聖なる者」とされるのです。「聖なる者」とは、「聖別」され、「聖化」の命を生きる者という意味です。「聖化」は、聖なる者たちと「共に」キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解し、愛を知り、神の愛に満たされる(プレローマ)豊かさの世界を生きるという意味です。(エフェソ3章)その命を示された主イエス。それに比して、マルコ書に登場し、主イエスを「試みる」輩は世の権威者です。彼らの目には「神の愛」(律法)が見えていません。だから「女・子供」が軽んじられ、人としての人権が守られていなかったのです。主イエスは「小さい者」の側に、立ち切られました。主が「愛」から出られた人であり、「愛」の存在であったからです。私共は「一つの源」から出てきました。私共は愛を生きるキリスト者です。