11月1日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスはこの群集を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。

(マタイによる福音書 5章1~12節)

説 教 「天には大きな報いが」

本日は「召天者合同記念礼拝」です。ここに飾られてある、お写真の先達の方々は、どのような信仰を生きられたのでしょうか。本日は、そのことを偲びながら、礼拝を守ります。本日の御言葉は「山上の説教」です。主が弟子たちに教えられた「弟子の道」の長大な説教の冒頭部分です。英語では「ベアティテューズ」と言われ、「至福の教え」と訳されます。主自身が歩まれた道を表しているとも言われます。そのことから「山上の説教」は、正教会においては「謙遜の祈り」と呼ばれ、礼拝で最も頻繁に唱えられる祈りとなっています。またイエスに倣う信仰者は、この祈りは、その信仰の成長と共に歩んでいく道であるとも教えられています。本日、私共と共におられる先達の方々もまた、その「謙遜」の道を行かれた方々です。では、その「謙遜」の先には何があるのでしょうか。それは、「天の国」であり、「天における報い」です。この意味を知る者は、先達の信仰者の喜びを共に味わう人です。本日、私共は先達が持っておられた喜びを御言葉を通して、深く味わいたいと願います。本日の御言葉には「心の貧しい人々」と記されています。「平地の説教」であるルカ書には、ただ「貧しい人々」とあります。ルカ書の方が主の言葉を、そのまま伝えています。しかし、マタイはあえて「心の」(プニューマ)を入れました。主の語られた意味を具体的に伝えるためです。本日の御言葉では、「心の貧しい人々」と「義のために迫害されている人々」は「天の国」を得ると言われています。この意味は同じです。主は先の句(11:29)において、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」と語っておられます。柔和も謙遜も貧しいも、ヘブル語では「アーナー」です。「アーナー」は「神の前にくずおれ、神に徹底的に信頼を置く」という意味です。先週お語りした「最も重要な掟」の並行句であるマルコ書では、「くずおれた」律法学者に対して、「あなたは、神の国から遠くない。」と言われています。信仰とは、自分に頼るのをやめ、主に信頼を置くことです。義の道とは神の言葉に聴き従う道です。その道は愛を届ける道です。迫害にあっても、愛を届けることを諦めない道です。その愛を諦めない道の先に、天の報いである「喜びに満ちた永遠の賜物」が待っています。その喜びを携えながら先達は生きられたのです。