11月15日(日)聖日礼拝

「聖 書」

天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。

(マタイによる福音書 25章14~30節)

説 教 「少しのものに忠実」

神様が注いで下さる愛は絶大なものです。にも拘わらずに、神様は私共に注いで下さっている愛を、本日の御言葉では「少しのもの」と表現されています。「お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを(天国で)管理させよう。」何故、神様は私共に託して下さったタラントン(賜物=愛)を「少しのもの」と言われているのでしょうか。それは天国の満ち溢れる「愛の豊かさ」と比べればという意味です。本日の御言葉に出てくる主人は「主イエス」のことです。主イエスは今、御国におられます。信仰者は主より「タラントン」を託され(パラドーミ=信頼してゆだねる)ました。「タラントン」は年収の20年分にあたり、莫大な額を表します。主は力に応じて、五タラントン、二タラントン、一タラントンを信仰者に信頼をし、「託し」ます。この額の違いは神の恩寵の「受け取り方」の大きさを表現しているのかもしれません。その証拠に、「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」とたとえの結びで語られているからです。一タラントンを託された者は、主人の差別に嫉妬し、「お金(アルグリオン=銀)」を地中に隠したわけではありません。主人のことを「蒔かない所から刈り取る厳しい方(乾いた方)」と思い、恐ろしくなったからです。その僕の行為に対して、主人は「怠け者の悪い僕だ。」と言われました。「怠け者」は(オクネーレ)であり、「躊躇する、不安がる」の意味があります。つまり主人は信頼して「タラントン=愛の恩寵」を僕に託したのに、主人のタラントンを金(銀)と僕は見誤っているのです。「蒔かない所から刈り取る」は、主人の僕への信頼の現れです。世に天国を造る幸いを神に託されているという意味です。「愛を蒔く」は、ミッションや喜びであって、義務や脅迫ではありません。「少しのものに忠実」とは、「神の愛に豊かに満たされ、愛に応えてもなお足らぬを思う信仰者が、それでも足らぬを補って下さる神を信頼し、神の愛の信頼に応える(応答)こと」と言えるでしょう。その忠実な僕には天の国においても、天の国の「管理を託される」ことでしょう。私はここで、以前、本日のたとえから御紹介した日野原先生のことを思い起こさずにはおれません。先生は晩年、「どうか、君たち、よろしく頼みますよ。」と愛を託されました。私共は神と人の愛に感謝し、神の愛の種を蒔き続けます。