11月22日(日)聖日礼拝

「聖 書」

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしてときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ね下でしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

(マタイによる福音書 25章31~46節)

説 教 「最も小さい者の一人」

本日の御言葉は「終末主日」に相応しい御言葉です。マザー・テレサも又、本日の御言葉に生きられた方です。本日の御言葉は確かに「終末」のことを主が語られている場面ですが、しかし、本日の御言葉の中心は、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国(御国)を受け継ぎなさい。」です。マザーは「裁き」があるから人を愛したのではありません。主が自分を愛され、その愛に応え、主が愛された人々と共に生きられたのです。その彼女の行動の動機が、本日の御言葉なのです。又、本日の御言葉は天国に入るためのマニュアルでもありません。その証拠に、羊の側にある人は、自分のした行為を主に褒められた時に、自分の行為を「知らずにした者」でした。本日、私共が聴くべき「主の言葉」は「終末の幸い」です。今、私共の前に用意されている「御国の幸い」です。主は「人の子の到来」について尋ねた弟子に向けて、人の子を「待ち望む」ことは「御国の幸い」を待ち望み生きることであることを教えられたのです。その道は主と共にある道です。主は飢え、渇き、宿なしで、裸で、病があり、牢にある者と共にありました。主御自身が今、同じ者となり生きておられます。私共が本日の御言葉を読む時に、自らは「同じ貧しい者」である自覚なしに読むでありましょう。しかし、私共の真の姿は「同じ貧しい者」です。全ての者が、そのような者であったから主は「救い主」として、私共のところに来られたのです。主に救われた者は感謝し、主と共にある人々を愛するでしょう。これが天国の住人になるということです。本日の御言葉は、愛の業を行いましょうではありません。私共が小さな愛の業でさえ、いつまでも忘れないでいる「恩着せがましさ」からの解放であり、慈善の名のもとの「偽善」からの解放です。真の待ち望み、終末への備えは、主と共にあり、「天国の幸い」の希望に生きることです。この幸いを端的に表した民話が「靴屋のマルチン」です。主人公のマルチンは「主を待ち望む」幸いが、天国を生きる原動力になりました。マルチンは終末に救いがあったのではなく、主を待ち望む喜びの先に、愛の行いがあり、その時に「主と共にあり」、天国の幸いを得ていたのです。天国の幸いを得ることは観念や知識ではありません。偽善の行為でもありません。私共は御国の王を待ち望み、永遠の喜びを今、生きていくのです。