12月20日(日)降誕日礼拝

「聖 書」

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。…その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは神の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

(ヨハネによる福音書 1章1~18節)

説 教 「まことの光」

皆様、クリスマスおめでとうございます。クリスマスの祝祭を祝う理由は、「受肉の神秘」です。聖なる神が、私共の世界に来て下さいました。神の歴史への介入です。人の歴史は、己を神とし、「ユートピア(どこにもない場所)」を求め続ける「原罪」を生きてきたものです。しかし神は、その「人の歴史」に救いを賜りました。神は「バシレイア(主イエスのいる場所)」(御国)を私共にプレゼントされたのです。その福音をヨハネは「受肉の神秘」として、福音書の冒頭に記しました。「(神である)言(ロゴス)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(1:14)人の世にある「わたしたちの間」には何があるのでしょうか。それは、「不平、不満、妬み、嫉み、憎しみ、差別」です。一言で言うならば「闇」です。受肉の主は、その「間」に宿られたのです。この「宿る」は(スケーノー)です。聖書においての意味は「神の臨在」(住む、天幕を張る、臨在)を表しています。私たちが「闇」を生き続ける限り、人生に救いはありません。私たちが「まことの人生」を手に入れたいのならば、主イエス・キリストを、お迎えするしか方法はないのです。主は「まことの光」として世に来て下さいました。主の光は光源ではありません。私共の「人格のすべて」を照らす「まことの光」です。墓場まで持っていくと決めた秘密も明らかにされ、自分の知る由もない罪も明らかにされる光です。私共には「まことの光」が必要です。私共は「罪」(シン)に喘いでいます。その全ての「罪」が、まことの神に裁き切っていただかなければ、「まことの平安」=「救い」は来ないのです。神は「まことの光」において、人を裁いた後に、贖いである「主」を賜ります。まことの人生の始まりです。愛が回復された人生の始まりです。主は、「実に、神の国(バシレイア)はあなたがたの間にある。」(ルカ17:21)と言われました。これは「受肉の神秘」を「受け入れた人々」の「間」にあるものです。私の義姉は里子に出され苦労をした人です。小学校を卒業をし、継母のところに来ました。そこに私が生まれてきました。義姉は私を自分の子のように世話をしました。私にとっては母代わりでした。闇の中にあった義姉は私が光であったでしょう。人は「まことの光」を信じる時に、人生が救われるのです。本日のイブの御言葉「地には平和、御心に適う人にあれ。」は「まことの光」を信じ、受け入れる人に訪れるのです。