12月6日(日)聖日礼拝

「聖 書」

神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」 そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

(マルコによる福音書 1章1~8節)

説 教 「キリストの福音」

待降節を迎え、新しいキリスト教暦が始まりました。2021年の福音書は、「マルコによる福音書」を基調として用いていきます。マルコ書は福音書の中で先に書き上げられたものです。その為に、他の共観福音書はマルコ書を底本として用いました。マルコ書の特徴として、脚色がなく素朴な感がします。前後のつながりに難が感じられても、音読して読むならば物語は生き生きとつながってきます。福音書の中で、マルコ書こそが「初代の福音理解」「弟子たちがイエスをどう見ていたか」「イエス御自身が、どのようなひととなりであったか」を最も知る事ができるものであると言われています。2021年はマルコ書を通してイエスのひととなりに近づき、更に深く「福音を生きる」幸いを得たいと願っています。さて本日の御言葉は、「洗礼者ヨハネ」です。待降節第二主日で読まれる人物です。マルコ書は「降誕物語」を記していません。「受難物語」を中心に「福音」が語られているからです。しかし主のことが初めに記されていない訳ではありません。その冒頭に、「神の子イエス・キリストの福音の初め。」と記しています。ここにイエスが登場せられ、そして簡潔にマルコ(キリスト者)の「信仰告白」が冒頭に記されています。まず、イエスとは誰であるかを冒頭にて表明しているのです。そして続けて、「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、」とイザヤ預言の成就としての「メシア預言」を思い起こさせています。「わたし」は「神」であり、「あなた」は「イエス」であり、「使者」は「ヨハネ」のことです。本日の御言葉を御覧下さい。「キアズモ(交差法)」が用いられています。天と地、神と人の対称を際立たせています。私共の信じる「福音」は「神の業」「神の計画」であるということを読む者に強く印象付けているのです。これは初代教会の「福音理解」でした。マルコ書は、これから何を語るのか。本書は福音を語るのです。それもキリストの福音を語り抜くのです。初代教会の人々は、福音を伝えられ、福音を知り、福音を受け入れただけではありません。彼らは「福音を生きた」のです。ですから福音を人々に語っていく私共も、福音を生き、福音が語られゆく先々で、その人の魂に「生き生きとした御言葉(キリスト)」が立ち上がる幸いを祈りつつ、福音をお伝えしていかなくてはなりません。私共の福音を生きる体験が、私共の隣人に「天国」をお届けする幸いとなるのです。