5月17日(日)聖日礼拝

「聖 書」

エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

(使徒言行録 8章5~17節)

説 教 「聖霊を受けるように」

本日の御言葉は「サマリア教会の出発」が語られています。サマリアの人々は執事のフィリポの伝道により、洗礼を受ける者が多く輩出されました。そこでエルサレム教会からペトロとヨハネが遣わされ、「聖霊の洗礼」を授けることにしました。二人の手により、サマリアのキリスト者に聖霊の油が注がれました。「サマリア教会の誕生」です。使徒言行録の著者のルカは、教会は「聖霊降臨」を受けて、初めてまことの出発を為すことができるということをここで強調しているのです。では改めて問います。「聖霊を受けるとは如何なることでしょう。」また、キリスト者は必ず、聖霊を受けなければならないのでしょうか。ただ、主イエスを自分の救い主と信じているだけではいけないのでしょうか。答えは簡単です。キリスト者は必ず聖霊を受けなくてはなりません。それは、パウロが語っている如くに、「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない」(一コリント12:3)からです。聖霊の賜物なしに「キリスト者」として立つことはできないのです。しかし現在、世界に広がりゆく「キリスト教会」に集う信者は聖霊を受け入れていない人々が多くいます。現在、教会は力を失いつつあるように見えます。このことは問題であり、神の御心を痛めていることでもあります。先週お語りした「クオ・バディス」にてペトロの前に現れたキリストは、ローマに向われ、「私に与えられた人々の為に再び十字架に架かりに行く」と言われました。私共キリスト者は再び主を十字架に向かわせるわけにはいきません。心を真摯に神に向かわせ、神に立ち帰る必要があります。では聖霊を受けるためにはどうすればよいのでしょうか。本日の御言葉の後節で、魔術師シモンが神の賜物である「聖霊」を金で買うという愚行に走ります。ペトロは彼のことを「腹黒い者」と直言しました。「腹黒い者」とは自己中心な者ということです。聖霊を受けるためには、「貧しい者」であることが大切です。自分に頼らずに、「神にのみ」頼る心が大切なのです。私共の師であるバックストン先生は、多くの教職に聖書を教えながら、「日本のキリスト教界に必要とされているのは「聖霊の火」であることを感知して」いました。そこでケズィック・コンベンションの前身である「修養会」を創設したのです。修養会に参加した者は「力」に満たされ、御霊の実を結ばせ、日本の福音伝道の礎に育っていったのです。