6月14日(日)聖日礼拝

「聖 書」

わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。

(コリントの信徒への手紙 一 10章16~17節)

説 教 「賛美の杯」

コリントの信徒への手紙一の13章には有名な「愛の賛歌」が記されています。本日の御言葉は、その「前段」となります。パウロ先生は何故「愛」を語ったのか。それは、教会は「三位一体の神の愛の交わり」の内にあり、教会は愛によって「一つ」であり、愛によって教会は「キリストの体」となっていくからです。教会を造り上げていく「源」が「愛」であるからです。ではパウロ先生の語る「愛」とは何か。それは「賛美の杯」です。主の晩餐のことです。パウロ先生は「主の晩餐の指示」の中で、「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。」(11:27)と語られました。この意味は「愛を忘れた者」ということです。初代教会の頃の「聖餐」は主の晩餐であって、「愛餐」も兼ねていました。晩餐が礼拝:聖餐(想起)であり、食事(交わり)であったのです。コリントの教会には多種多様な人々が集っていました。貧富の格差もありました。「晩餐」の食事は持ち寄りでした。金持ちは早く教会に集い、食事を持ち寄りました。しかし奴隷の人々は、仕事が終わってからしか教会に行けません。貧しい暮らしなので持ち寄りの食事も持っていくことができなかったのです。すると、早く集うことができた者は「貧しい者」を待たずに、先に「晩餐」を済ませてしまったのです。パウロ先生は、その晩餐に対して、それは「主の晩餐」とは違うと教えられました。そして「愛を忘れた者」に対して、あなたは主の晩餐に「ふさわしくない」と訓告したのです。コリントの教会の人々はパウロ先生の言葉に耳を傾け、悔い改めを為しました。コリントの教会はキリストの体を造り上げるところとなっていきました。つまり彼らは「愛を取り戻した」のです。このことの意味を端的に語るならば、「主の晩餐の杯」が主キリストの「御血」となったということです。「御血」が「賛美の杯」として受け取ることができたということです。ここに記される「賛美」(ユーロギア)は神から贈られる「祝福・聖別・恵み・賛美」のことです。主の杯は「目に見える神の言葉」として、主が現臨されています。私共がまことに「主の杯」を感謝して受け取るならば、それは尊い「キリストの体」を受け取るのです。キリストの姿を目にすることができるのです。感謝して主を受け取るのです。その時、キリスト者は霊の喜びに満たされるのです。