6月21日(日)聖日礼拝

「聖 書」

「…二羽の雀が一アサリオンで売られているのではないか。だが、その一羽さへ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

(マタイによる福音書 10章26~33節)

説 教 「わたしの仲間」

マタイ書10章は「十二使徒の選任と派遣」が記されています。11章1節においては、「イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると」と記されていることから、10章全体が「指図」であったことが理解できます。ですから本日の御言葉もまた、イエス様が弟子たちに向けて語られた「派遣の指図」の一部分です。その理解のもとに本日の御言葉を読むことが、正しい聖書理解につながります。本日の御言葉は「一羽の雀」の部分が取り上げられ、よく説教がされます。その時に用いられるものが「心くじけて」聖歌285番や「一羽の雀」(ゴスペル)です。その内容は、私共キリスト者にどんな困難があろうとも、私共の真の友であるイエス様の眼は雀のような小さなものにも注がれているのだから、「あなたも安心して行きなさい」と解したものです。勿論、この解釈が間違っているわけではありません。しかし、十全でもないのです。32節に「だから」とあります。その後に続く御言葉を読むならば、何か「座り」が悪い気がします。キリスト者であるあなたは、どんな困難が訪れようとも主が守られるので、人々の前で「主の仲間」であることを公言しなさいとはっぱをかけられているように読めてしまうからです。この捉え方は、前節での読みの浅さに起因しています。本日の御言葉は「派遣の指図」です。本日の「一羽の雀」の話も、その派遣の話に関わるものであることは当然です。十二使徒たちは主の権能を受け、主の全権大使として「宣教」に遣わされます。これは私共が今、神と共なる「天国の住人」とされ、天国の派遣の使命に生きていることと同じです。世は私達を受け入れないのです。それどころか天国の福音を告げることは「迫害」を受けることにもなるのです。主はそのことをよく理解していました。ですから先に弟子たちに告げておいたのです。では何故、福音には迫害が伴うのでしょうか。それは世が悪魔の支配の中にあるからです。人の心に罪があるからです。しかし私共は「天国の住人」として、主の御声に聴き従います。その道がすべての人の「魂の救い」につながる愛の成就であるからです。主の語られた「派遣」は霊の世界のものです。ですから「一羽の雀」の話も霊の世界のことなのです。私共が福音を告げる、そこに抵抗がある。しかし「真理」は必ず明るみにされます。私共は霊に生き、愛の三位一体の神に信頼をし、主は「わたしの仲間」と公言するのです。