6月28日(日)聖日礼拝

「聖 書」

はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。

(マタイによる福音書 10章37~42節)

説 教 「小さな者の一人に」

今週の御言葉は先週の御言葉の続きです。主は十二弟子を宣教の派遣の為に世に遣わされました。それも主の権能を与えられ、神の国の「全権大使」として世に遣わされたのです。このことは本日の御言葉の、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」に示されています。ここに示されてある「全権大使」は十二弟子にのみ適用されているものではありません。聖霊の働きを受けて、信仰者とされた私共にも適用されることです。私共は天国の住人とされている幸いと共に「派遣の命」(全権大使の命)を生きているのです。しかし宣教の道は茨の道であり迫害の道です。しかし主は、「自分の十字架を担い」、行きなさいと命じられました。私共に可能なのでしょうか。私共が迫害に耐えることができるのでしょうか。世に倣わず、人に惑わされず、神のみを神とする道を選び取る力があるのでしょうか。私共は弱く無力で「小さな者」です。そうです、私共は「小さな者」です。しかし主は、その私の全てを御存知なのです。先週お語りした「一羽の雀」のように、その小ささも弱さもすべてのことを知ってくれておられるお方なのです。私共の「小ささ」は誇りです。私共が「小さな者」であるから、主が働かれるのです。本日の御言葉の最後、「派遣の説教」の結語でもある言葉に、「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」とあります。ここで主が言われる「この小さな者の一人」とは誰の事なのでしょうか。それは主の弟子である「私共」のことです。主は主が遣わされる弟子が「小さな者」であることを御存知でした。ここで語られる小ささとは、「神の声に聴き従い、神の前に立つときに、自分が弱い者であること、貧しい者であり、主の支えがなければ生きることができない者であることを知っている者」のことであり、また「主が常に共にいて下さり、傍らに立ち、慰めを語り、希望を与え、苦難の中に遭っても喜んで生きる者」の小ささです。私共は小さな者の一人であるからこそ、人は私共に働かれる主を仰ぎ見るのです。私共が小さく己に死に、主に生きているからこそ、主の栄光を行く先々で拝することができるのです。その小さな者に援助者が現れます。天の国において大いに喜ばれ、援助者は報いを受けるのです。