7月5日(日)聖日礼拝

「聖 書」

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あならがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

(マタイによる福音書 11章25~30節)

説 教 「幼子のような者」

本日は有名な御言葉、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」の箇所です。この御言葉に慰めを受けるキリスト者は多くいます。しかし、その深みを味わうキリスト者は少ないと思われます。それは何故か、それは「休ませてあげよう」の箇所に慰めを受けて、「わたしの軛を負い」の祝福を受けていないからです。御言葉は真理です。今、あなたが与えられている本日の御言葉の「慰め」を、真実な「喜び」へと主に変えて頂くことを願い、本日の御言葉の解き明かしを致します。本日の御言葉は、前半(25-27)と後半(28-30)とを分けて解き明かしがよくされます。その理由は前半部は「イエスの祈り」として読む箇所だからです。主イエスは前半部の祈りをよく為されていました。今ここで、この祈りを為されている理由は、主イエスが宣教の務めに疲れを覚えているからです。宣教の拒否に遭っているからです。しかし主は、宣教を止めることはなさいませんでした。宣教の拒否に出会うこと、人々が福音を自分の力(知恵)で悟ることができないことは、神の御心であることを御存じであったからです。福音を受け入れない者は「知恵ある賢い者」でした。「知恵ある者」は神の国を見ることに失敗するのです。それは何故か、知恵ある者は、自己を信頼し、神に依り頼まないからです。神の国が示される相手は、神に頼り切る「幼子(小さい者)のような者」です。主の弟子たちは正に「幼子のような者」でした。現に初代教会においては、キリスト者は「幼子」「小さい者」と呼ばれていました。幼子とは知恵ある者から見れば、「価値なき者、無知な者、正に小さい者」です。しかし神はあえて「愚かな者、弱い者、身分の低い者、軽んじられている者、無きに等しい者を選ばれました。」(一コリント1:27)福音は知恵ある者には神の御心により隠されています。福音は人間の知恵に頼るものではなく、信仰によって示されるものだからです。(イザヤ6:9)人が自己や、この世の力に頼ることに徹底的に絶望する時に、人間の力の尽きる時に、正に神の力は真に働かれます。知恵ある者(尊大な者)は私達に不可能な重荷を負わせます。しかし神に対して柔和で、謙遜であるイエスは私達に同じく重荷(私の十字架)を負わせますが、主は軛を共にされます。主は重荷を愛に変容され、主から与えられる重荷は軽く、神の安らぎとなるのです。