7月12日(日)聖日礼拝

「聖 書」

弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。

(マタイによる福音書 13章1~23節)

説 教 「天の国の秘密」

本日は有名な「種を蒔く人」のたとえです。何故主イエスは、このところで、この「たとえ」を語られたのでしょうか。非常に分かりやすいように見える御言葉です。ここで語られる「たとえ」はパラボレーです。比喩や隠喩と訳される言葉です。しかし原意であるヘブル語は「マーシャール」であり、「なぞ」と解する言葉です。その意味を踏まえつつ、11節を読むならば、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されている」と言われた言葉とも関係づけられるのではないでしょうか。弟子たちが許された「天の国の秘密」とは一体何なのでしょうか。本日は、そのところを心に留めつつ御言葉の解き明かしを致します。主イエスは宣教に疲れを覚えておられました。先週お語りした通りです。しかし主には慰めもありました。「霊の兄弟姉妹」である弟子たちが与えられていることです。(12:49)本日の御言葉を語る主イエスは、舟に乗り、岸辺にいる群衆に向かって話されています。イエスと群衆には「近くて遠い」距離が暗示されているかのようにも採れます。主イエスの語られた福音は、弟子たちが託された宣教は、知恵(自己)に頼らず、キリストを通し、信仰(神)にのみ依り頼むことを通して、悟ることができるものです。まさに「幼子(小さき者)」に示された救いです。群衆の多くは「たとえ」の「なぞ」を解することができません。知恵(自己)に頼んでいるからです。(イザヤ6章9節の預言の成就)しかし主は語り続けます。福音を受け入れる「幼子=弟子=霊の兄弟姉妹」者が現れてくるからです。天の国で「大きな喜び」があるからです。私も牧者として同じ経験をしてまいりました。宣教の実りは少なくとも、一人の回心者が出てくることは、何にも代えがたい「大きな喜び」です。主は、この「喜び」の為に、神の御旨である宣教を行かれました。神は誰一人も滅びの道を行くことをお望みになりません。キリストは到来されましたが、未だ「世」は虚無に服しています。被造物は「神の子たちが現れる」ことを切に待ち望んでいます。(ローマ8:18)私共キリスト者はキリストに神に宣教を託されているのです。キリストは私共に、豊かな「福音の実り」を期待しておられるのです。それは私共の内に「天国の幸い」「内なる喜び」が満ち溢れる実りの幸いも意味しているのです。宣教に遣わすあなたにも困難がある、しかし必ずあなたには豊かな実りがある。これが主の心です。