7月19日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦のほうは集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

(マタイによる福音書 13章24~43節)

説 教 「両方とも育つままに」

本日の御言葉は、先週の御言葉の続きです。御言葉の冒頭で、「イエスは、別のたとえを持ち出して」と書かれています。主は何故、本日の御言葉を語られたのでしょうか。先週の続きと考えてよいのでしょうか。この意味を知るために、マタイの編集意図を汲んでおきましょう。マタイは13章の「種を蒔く人のたとえ」を記すにあたり、キアズモ(交差配列法)を採用しました。ですからマタイの伝えたい大切な言葉は明確にされています。文章の大切な括りとしては「毒麦のたとえの説明」であり、文言としては、「両方とも育つままにしておきなさい」であり、「正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」です。この二つの文言は、主旨に齟齬があるので、マタイが意図的に「毒麦のたとえの説明」を加えたのではないかと解する学者もいます。しかし、これらの文言には主の明確なメッセージが込められていることから、文章を素直に読むほうが自然であろうと私は思います。それが正しいとするならば、先に述べた二つの文言が本日の押さえておく言葉となります。紙幅の関係で詳細は省きますが(礼拝の説教にて詳述)、本日の御言葉は13章で語られる「天の国の秘密」を解く鍵です。天の国は「すでに」来ていますが、「いまだ」完成していません。天の国の完成は、主の再臨を待たなければなりません。その「すでに」と「いまだ」の間を私達は現在生きているのです。ですから私共は「教会時代」を生きていると言ってもよいでしょう。しかし天国の先駆けである「教会」を見るなら、天国の希望を持ちことができるでしょうか。答えは「否」です。主は宣教を始めるにあたり、その「教会時代」も予見していました。主の語られたことは「未来」の話だったのです。ですから「たとえ」で語り、謎である「秘密」を解き明かしされたのです。主が来臨され、「すでに」天国は用意されていても「いまだ」悪魔の働きは滅んでいません。悪魔が滅びるのは、「終末」です。ですから教会の中にも「悪魔」は静かにと忍び込んでくるのです。教友が「毒麦」に見えたり、自分が「毒麦」であると思い込んでしまうこともあります。教会の中で裁き合うこともあります。悪魔の思うつぼです。主は未来を生きる私共のことも予見され、言葉を下さいました。本日の言葉です。教会で起こる問題を主に委ね、信頼せよ。主は道を備え、「輝き」(聖化)の世界に導かれる。主は忍耐して待っていて下さいます。