6月30日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別に人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとごまいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

(ルカによる福音書 9章51~62節)

説 教 「わたしに従いなさい」

皆様は覚えておられるでしょうか。週報に載せましたイエス様のお姿。旧会堂に飾られていた一枚の絵画です。ホフマン作「オリーブ山の祈り」(ゲッセマネの園)という作品です。私は学生時代に一人で旧会堂の中で祈りを捧げる中、この絵画のイエス様の姿と私の祈りの姿を重ね合わせていました。イエス様の熱い祈りに対して、私の祈りのいかに貧弱なものかをいつも思い知らされていたのです。しかし、それと共に、この絵画によって「祈り」というものがどのようなものであるかということも学んでいたと思います。イエス様は「最後の晩餐」にて、「永遠の契約」(エレミヤ31:33)の成就を語られました。既に私共の前には「天国の入り口」が用意されています。私共は主イエスを信じて、ただ「入る」だけです。しかしイエス様は、主イエスを信じる者のすべてに、「主よ、主よ」という言う者が皆、天国に入るわけではないと言われていました。私共はどうしたらよいのでしょうか。その答えは、本日の絵画「ゲッセマネの祈り」です。イエス様は官憲に捕縛される直前に、オリーブ山にて一部の弟子のみを連れて「祈り」に行かれました。イエス様の祈りの言葉は「この苦き杯」を取り除けてくださいでした。「苦き杯」とは「十字架の死」のことです。主は「苦き杯」の意味を知っておられました。「苦き杯」は無残な死です。悪者の心や行為を受け入れ、死に渡されるということです。また、もう一つの意味は「神の怒り」です。人間の犯した罪の身代わりとして、「神の裁きを受ける」というものです。イエス様が、この「苦き杯」を避けたならば、私共には永遠に「救い」が成し遂げられることはありませんでした。そのことを十分に知り尽くされていた主であったからこそ、その最後の祈りの言葉は、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」でした。この言葉は、母マリアが受胎告知の時に、「お言葉通りになりますように」と語った信仰の言葉と同じものです。この信仰こそが「信仰の奥義」と言われるものです。主が行かれた「信仰の道」、このことを知れば知るほど、本日の御言葉で語られた「わたしに従いなさい」は信仰者に躊躇を覚えさせる言葉です。現に私が主から「召命」の言葉を聴いたとき、私は「逃げる道」を選びました。主からは逃げることは適わないことは後に知りましたが。私は逃げることから「従う道」を選んでから、主の「わたしに従いなさい」の真の意味を知りました。私共は死を選ぶ者。しかし主は、「わたしに従いなさい」と招き、命を賜るのです。