7月25日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

(ヨハネによる福音書 6章1~15節)

「欲しいだけ分け与えられた」

「五千人の供食」の記事は私達に何を語っているのでしょうか。この記事の意味について、ヨハネ書のみが「解説」を加えています。その答えを一言で言うならば、「わたしが命のパンである」(6:35)というイエスの言葉となります。この意味を説き明かすために2週に亘り、「わたしは命のパン」について説教を致します。さて前半の本日は、説教題を「欲しいだけ分け与えられた」にしました。「五千人の供食」は、四福音書の全てに記された記事です。しかし「欲しいだけ分け与えられた」の一文はヨハネ書のみに記されたものです。この意味は「貪欲」を表しているのでしょうか。それとも「神の愛」を表しているのでしょうか。或は意味はないのでしょうか。「五千人の供食」の記事は「最後の晩餐」の原型と言われています。その証拠に、初代教会では「アガペーの食事」と呼ばれる儀式があり、聖餐式と愛餐会を加えた「最後の晩餐」を想起するものがありました。この典礼儀式が行われていたカタコンベ(キリスト者が礼拝した地下墓室)の壁画には「5つのパンと2匹の魚」がよく描かれています。初代教会の人々が、「最後の晩餐」と「五千人の供食」を連ねて想起していた証拠です。この壁画の一つをとっても、キリスト者にとって「五千人の供食」は主イエスを想起する大切な出来事であったことが分かります。では「五千人の供食」の意味とは何なのでしょうか。それは主イエスが「小さい者」に寄り添い続ける「神」であることを示す「しるし」であることです。以前にお語りした(6:32)に、過去に神がパンを与えただけではなく、「今も」まことのパンをあなたがたに「与え続けて」おられると記されてあると解き明かしを致しました。貧しい食事(大麦)を主に差し出した少年(パイダリオン)と主の前に置いたアンデレ。主に試みられたフィリポ。ヨハネ書は、その名前をも記しています。この試みは神に信頼することを学ばせる為のもの(民数記11:、出エジプト16:)ですが、それと共に「明日のことを思い煩うな」(マタイ6:34)の神は「必要なものは加えて与えられる」方だと、この「出来事」(しるし)を通して、主は教えられたのです。主は神を信頼することを通して、物心、魂の全てが「満たされる」ことを示されました。私共は、その「命のパン」である主に礼拝を捧げるのです。奇跡の現象面だけに捉われることなく、内なる命の豊かさにこそ目を向けたいものです。