8月15日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降ってきたパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

(ヨハネによる福音書 6章51~59節)

「パンを食べる者」

「五千人の供食」の「しるし」の意味について、主イエスがなされた説教の結びの箇所が本日の御言葉です。主イエスは「わたしは命のパンである」と言われました。その意味は、「命のパン」であるキリストを食することを通して、私共には「永遠の命を生きる」幸いがここにあるということです。では、その「命のパンを食す」とは如何なることなのでしょうか。私共は「主の祈り」の中で、「日用の糧を与え給え」と祈ります。この「糧」は、「アルトス=パン」のことです。「パン」は「キリストの体」のことも意味しているのではないでしょうか。つまり私共は日々の祈りの中で、この世を生きる私共に日用の「肉の糧」と「霊の糧」を与えて下さいと神に祈りを捧げているのです。(申命記8:3「人はパンだけで生きる者ではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」)主イエスもまた言われました。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ4:34)主イエスは「命のパン」の出来事を通して、「永遠の命」の豊かさの世界を私共に告げておられます。主イエスの与えられるパンは、私共を「永遠の命」の世界、「天国」の世界へと招きます。そのことが「神の御心」であるからです。私共は神の国の住人とされたいと願います。しかし、その為には私共は「パンを食する者」でなくてはなりません。その意味は53節以降に記されていますが、本日の御言葉の解き明かしを具体化するために「キリストの聖体」の絵画を用意致しました。弟子たちに光臨が書き込まれています。二人だけ光臨がありません。主イエスとイスカリオテのユダです。最後の晩餐において、弟子たちは「命のパン」を食しました。ですから弟子たちには永遠の命の光臨があるのです。ユダは上辺は食しても霊の命は食さなかったのです。では主に何故光臨がないのでしょうか。それは主は「パン」=「受肉」であるからです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハネ1:14)主の肉と血を食した者が、主の命を生きるのです。この「食す」は(トロゲイン)で、「よく噛んで食う」ことの意味です。主の肉と血を食し、主の命を生きた弟子たちは、多くが「殉教」しました。神の「業」を成し遂げ、神の愛に生きたのです。私共が「命のパン」を「食う」ことは、決断です。しかし、その決断の信仰の行為の中に永遠の命の主が共におられるのです。