8月8日(日)聖日礼拝

「聖 書」

ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。…わたしは、天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

(ヨハネによる福音書 6章41~51節)

「父から聞いて学んだ者」

主イエスとの豊かな交わりは、その交わりの内に入れられた者にとっては、主イエスへの信仰へと導く「礎」となります。このことは、あの「五千人の供食」の出来事の内に入れられ、「しるし」(セメイオン)を見ることが出来た者にとっても同じであったでしょう。しかし本日の御言葉は、違うことを語っています。「五千人の供食」の内にいた多くのユダヤ人が、主が言われた「わたしは天から降って来たパンである」という言葉につまずき、「つぶやいた」(ゴッキゾウ:心の中でぶつぶつ言う)と書かれているからです。何故、彼らは主イエスへの信仰へと導かれずに「つぶやいて」いるのでしょうか。それは「父から聞いて学んだ者」ではないからです。この箇所は、どう読めば良いのでしょうか。ユダヤ人は「聖書の民」です。神の民です。ですから彼らは常に聖書に聴き、神に聴いて学んでいた民なのです。ユダヤ人は、今も聖書をよく学ぶ民です。ここでの大切な言葉は「父から」です。「主」(アドナイ)ではありません。御言葉を聴く時の「関係性」が問われている意味です。私共は、人生を豊かに生きるために「学び続ける者」です。一度きりの大切な人生の指針の為に「何に聞いて学ぶ」のでしょうか。また「誰に聞いて学ぶ」のでしょうか。その答えは「学者、先生、カリスマ、両親、政治家、世の人、…」或いは「自分」でしょうか。聖書や神に聞くという人もいるかもしれません。しかし、それも詰まる所「自分」に聞いているならば、主の言われている意味を悟る者となることは適いません。本日の御言葉の大切なことは「父が引き寄せて下さらなければ」です。「引き寄せる」は(ヘルクエイン)で、「舟や車等の重いものを力いっぱい引く」の意味です。人の神を離れようとする「罪」は余りに重く、神が力強く「引き寄せて」下さらなくては、誰一人「父」のもとに行くことができないという意味です。これは預言の成就のことが語られていることです。イザヤ書53章(苦難の僕=メシア)を受けての、54章の「新しい祝福」(54:13)に記された意味です。またエレミヤ書31章の「新しい契約」のことです。この「愛」はゲッセマネの園の「執成しの祈り」の愛です。神は御子を天から降され、命のパン(キリストの体)を私共に与えて下さいました。私共は、その愛の極みの力によって、信仰を得て、神との関係性に入り、命のパンを食し、主イエスと共に永遠の命を生きるのです。