8月4日(日)聖日礼拝

「聖 書」

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたもキリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。

(コロサイの信徒への手紙 3章1~11節)

説 教 「上にあるものを求めよ」

8月に入りました。本日は「平和聖日」です。今週からは新たに、私共の教会の50年史でもある「一本の杖」を読み進めていきます。先代牧師の高橋文蔵牧師の「追憶集」でもある本紙は先の大戦も経験してきたものです。しかし、この記念誌には、その暗さが微塵も感じられません。その理由は言わずもがな高橋先生の信仰に寄るところが大でありましょう。その時代が如何なる困難な時代であろうとも、その変わらぬ信仰の熱情と喜びが、本教会を躍進させる熱となり、その歴史もキリストの栄光を現すものとなっていた、その証しこそが歴史の暗さを吹き飛ばしていたものと思われるのです。では、高橋文蔵牧師は何を目指していたのでしょうか。それは本日の御言葉でもある、「上のものを求め」目指していたと思われます。では「上のもの」とは何か。それは神の愛であり、キリストそのものです。先生のキリスト者となってからの人生は自分に死に、キリストに生きる人生そのものでした。その牧師人生をキリストの福音の種を蒔き続け、頑固一徹、伝道者の道を歩み続けられました。牧師として、愛の実践を続ける中で、「伝道者」の道こそを求め続け、歩み抜かれました。であるからこそ、神はキリストを通して、高橋文蔵牧師の働きに栄光を現されたのです。私共はどうでしょうか。自分に死に、キリストの栄光を現す命へと移されているでしょうか。今一度、教会の原点に立ち帰って頂きたいと思うのです。本日の御言葉の大切なところを学んでおきましょう。また、この大切なところを知っておくことは、キリスト者として、長く教会生活を続ける秘訣を知ることです。永遠の命をいただく秘訣でもあります。その「大切なところ」とは何か。それは「上にあるもの」です。どうしてパウロ先生は「神を」とか「神の愛を」求めなさいと言わずに、「上にあるものを」求めなさいと言ったのでしょうか。それは真のキリスト者は真の神こそを神としているからです。自分を神と同等にすること等ありえません。神より自分を「上に」すること等、ありえなのです。真のキリスト者は「神を神とする」民なのです。自分は神の「被造物」なのです。しかし、この被造物である人間は、神の恵みに応答する「人格:神の似姿」として造られました。ですから人が神を忘れ、神を離れ、罪に塗れ、不平と不満と死の人生を人が歩むことを神は我慢できないのです。人は神より自分を上にすることを罪と言います。その罪の結果は死です。本来あるべき喜びの人生を手にすることが、神の最も願われていることなのです。