9月22日(日)聖日礼拝

「聖 書」

そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。わたしは、その証しのために宣教者また使徒として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。

(テモテへの手紙一  2章1~8節)

説 教 「すべての人々のために」

私共は今、連続でキリスト者の「証し」について御言葉に聴いています。何故キリスト者は「証し」を為すのでしょうか。証しは必要なことなのでしょうか。その答えについては、本日の御言葉が教えています。「証し」の基本は「祈り」です。ですからパウロは、「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」と教えています。「証し」とは他者を愛する愛のことと捉えても良いでしょう。しかし「証し」は他者だけではなく自分をも救いうる業でもあります。そのことについては、後節のパウロがテモテに対して勧める言葉、「自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。」(4:16)から教えられます。「証し」とは「救いの実と種」でもあるのです。それにしてもパウロは今、キリスト者に対して迫害している敵や皇帝(王)に対しても「祈りなさい(愛しなさい)」と勧めています。何故なのでしょうか。それはやはり、本日パウロが語る「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」に帰結するでしょう。しかし「証し」が言葉だけの偽善になることを神は望んでおられません。自分の弱さを、ありのままに知り尽くしておられる神に全てを委ねながら「証し」の生涯を歩んで行くことこそ、神の望まれていることです。パウロも信仰者の先達もすべて同じ道を行かれました。近年、天に召されたノートルダム女子大の渡辺和子先生が「生き方が自らの証しになる」「信仰は、持つものではなくて、生きるもの」と普段から語っておられた言葉もまた、偽善的な生き方ではなく「真摯に神に向き合う」「自分の弱さと罪に向き合う」中から自然と神に示される命を生きることのことを言われていたように思います。週報にお載せした五十嵐氏の父は「白洋舍」の創業者である五十嵐健治氏です。五十嵐氏は三浦綾子先生にキリスト教を伝えた信徒としても有名です。詳しくは「夕あり朝あり」に記されています。五十嵐氏もまた、「証し」の生涯を歩まれた人です。「白洋舍」はクリーニング業界のトップですが、その道程は波乱万丈でした。しかし現在の祝福を得たのは五十嵐氏の「証し」に負うところ大でありましょう。五十嵐氏は、どんな困難も神の御旨と受け止め、神を信頼して歩み抜かれたのです。彼は言います。「人の愛がわかるのは、様々な経験を必要とする」私共も又「愛」をすべての人々に届けるために「証し」の道を歩むのです。